言葉や感情の源泉を大切に

インターネットを使ってモニターの中の情報空間ばかりに意識が向いていると、膨大な情報量や刺激が当たり前となってしまい、現実の目の前の世界、生活に物足りなさを感じたりすることはないでしょうか?

現実の生活では得られない刺激を求めて、無意識的に気がつくと携帯をいじってメールやネットを見ていたり、なんとなくネットサーフィンをして数時間が過ぎたり。

僕はそんな生活を、自覚なくしばらくしていました。
そしてそれについて何ら問題を感じることもなく、
当たり前のように、むしろ「自分は情報に敏感だな」「効率よく時間を使っているな」と満足感を持っていたほどでした。

しかしその弊害として、人の会話が遅く感じたり、まどろっこしく思えたり、面倒くさかったり、結論だけ先に聞きたい、結局これが言いたいのではないか?と頭で推論が動き、心で感じる機能が低下していたことを今になって自覚しています。

その人が何を感じているのか?
なぜそう感じているのか?
なぜ、その言葉が出てくるのか?
なぜ、その表情をするのか?
どうしてそのポイントにプラスやマイナスの感情が働いているのか?
そんな風に相手の話している背景を理解しようと心を研ぎ澄ませ、感覚を鋭くして話を聴くことは、まるで一本の映画を見ているような醍醐味を感じることがあります。

ただ情報知識としてインプットするのではなく、
その人の生き様、生き方を感じながら、エネルギーを感じながら言葉を聞く。
むしろ言葉は聞いていなくて、その言葉が生まれてくる背景を感じている感覚です。

誰か相手がいなくても同じことで、
今自分が感じていること、考えていること、それがどこから生まれてくるのか?なぜそう感じたり、考えているのか?

それらを意識しながら生活をすると、
ぐっと深みのある味わい深い時を過ごすことが出来、
たくさんの気づきが溢れてきて楽しくなりますよ。